まちづくりものづくりフォーラムinはちのへ     2001年7月25日

講演 「街づくりのための物づくり」

 長岡造形大学学長 豊口協 氏

 

 街として新幹線への対応策を考えねばならない。私も人生を68年過ごしてきましたがその中で常にいろんなプロジェクトにぶつかって自分をためしてきました。その事をお話する事が少しでもみなさんのお役に立つのならということで今日ここにやってまいりましたら旧友の今井さんに会いました小学校の同級生で感激しています。小学校卒業が終戦の年でした。疎開先で知り合った今井さんもおそらくそうだったように、戦後日本の社会をなんとか切り開いてどうやって生きていくのかを考えて今日まで人生を歩んできた訳です。

 今日駅からここまで八戸の町並みを拝見しながら来ました。ご参考に私が関わった街づくりの事例を中心にお話したいと思います。横浜に元町という商店街があります、百四〜五十年の歴史ある商店街です。横浜港が開港の年、全国から商人を呼びまして1業種1社(店)の商店街を作りました。先の約束は誰もしてくれない、しかし自分たちの力で街を作ろう。自分たちが新しい時代を切り開いていこうという事で集まってできた街です。すべてが自分たちの手にゆだねられて来た街なのです。歩いてみればすぐお気づきになるように道幅が狭い。しかも川がすぐ西側にながれており東側は丘になっております。地形的な立地条件が悪い場所にあるわけですが、戦前も栄え、戦後は米軍が元町はおもしろい場所だということでさらに栄えました。そして戦後今から25年ほど前に街の大改造をやろうと言う事になりました。横浜市が市全体の活性化を考えなければならないといことでMM21という造船所跡地の再開発計画をすすめました。中華街や関内そして伊勢崎町商店街がオイルショックと前後して低迷を始めたわけですが、横浜市としてはそれを心配して街に補助金を出して活性化を図ろうとしたわけです。元町にもその白羽の矢が立ちまして元町の活性化のために新しい計画を立てなさいという事になりました。そこで市役所と商店街の話合いがなされた訳ですがいわゆる金は出すけど口も出すということでどうもうまくいかない。百五十年の歴史ある商店街で外国の視察を何度もしているような見聞の広い商店主たちにまだ外国の商店街を一度も見たこともないようなの市役所の担当者が口を出すという状態。これは若手を外国に出したがらないという役所の体質が問題なのだが、当時の横浜市もそのような体質がありまして話がかみ合わない。そんな時商店街の若手から私の所へ「実は商店街は崩壊寸前なんだ、何とか協力して欲しい」と話があった訳でした。

 その頃初めて旭川で歩行者天国が行われ日本全国の商店街がそれを視察して絶賛した訳です。私も旭川の歩行者天国に行って見ました。佐藤忠良先生の彫刻がまん中にあるのですが回りに自転車がいっぱい置かれており、佐藤忠良先生もさぞ残念だろうと思いました。そして十年余りたって旭川に行きましたが実に無残な状態で街が汚くなっていました。ちょうどその頃元町の街づくりの手伝いをたのまれた訳ですが「横浜市は歩行者天国にしろと言っているんですよ」ということだったのです。自動車で来る客無くして商売はできないのに市役所は「歩行者天国をやれ」と言ってきたのです。当時元町全体では六万人の顧客がありましたがそのほとんどが車でやって来て一度に数万から場合によっては百万以上の買い物をする。たとえば娘の嫁入りに宝石を求めるような数年に一度だが150万円ほどの買い物をするようなそういう店が多い商店街だったのです。ところが歩行者天国のお客様は平均1500円程のお買い物しかしない、その歩行者天国のために自分たちが150年築いてきたお客様を失ったのでは商店街は成り立ちません。商店街は理事会を開き商店主たちは歴史を尊重することを決議し歩行者天国はやめ車を入れる事にしました。

 元町には1500円の商品は無かったのです、ということは歩行者天国のために若い人たち向きの商品を作らなければならない、しかしそれでは商売が成り立たない。歩行者天国はしない。伊勢崎町の街づくりは失敗じゃありませんか?歩道に妙な模様のタイルを貼ってあるがタイルはお風呂場に貼るもので歩道に貼る物じゃないと思います。タイルはショックを吸収せずしかも吸水性がないので靴で歩くと滑りやすい。人が大勢歩くと模様など見えない、しかも街路樹を植えたり、ガンダムの手のような照明灯には昼間から意味なく青い電灯がついています。結局、木を植えたことによって看板が見えなく店が探せなくなったためガクンと売上が落ちた。しかもストリートファニチャーがはやって歩道の本来歩くための場所にいろんなものを置く。飾り時計や噴水など----ベンチを置くとその上には浮浪者が寝ている。買い物をするための商店街にこのような物はいらないのです。天然の御影石は硬そうに見えても、うまい具合にショックを吸収してくれる。吸水性があるので滑らない、カンカン照りの日でもちょっと夕立が降ると水を吸い込んで光を吸収し眩しくなく熱も吸収してくれるこれが自然の石の良いところです。少しお金がかかってもいいから御影石をと主張した。「元町は伊勢崎町よりさらに狭いのに木を植えると店や商品が見えなくなる」「ここは散歩道ではなく商店街だ、徹底的に商店街のあるべき姿を作るべきでしょう」という話をした。照明灯を置けといわれたが電柱や標識など垂直人工造形物が街の景観を壊していると思い断った。「お店のショーウインドが明るければ照明灯はいらない、街がショーウインドの光で輝いている間をウインドショッピングするのが本当の歩行者天国ですよ」と思った。また看板のサイズ等の規制を言われたが元町の商人のプライドを傷つけるような事はできないし看板の規制をすることは商人の創造性を無視するような事だと思いこれも断った。

 ところがここで市との関係ではなく商店街の中で大きな問題が持ちあがった。先人達がやった以前の街づくりで店舗建物のセットバックを行ったがこれが大きな効果をあげてお客さんを呼んだ。この街づくりを手がけた長老達が新しい街づくりに批判的だった。その理由は「それぞれの店の前にはそれぞれたたずまいがあるだろう」という意見です。実際はセットバックした歩道部分に店舗ごとに段差があって危なくて歩けない、これからは少なくても歩道部分は誰でも歩けるように平らにしたいといったのですが、長老達は自分の店の店構えにこだわって反対した。「今私達がやらなければならない事は、今どういう時代に代わろうとしているかを見据えて、これからの時代に適応するような街づくりをしていく責任があるということです」「今までとおなじような街で同じような商売をしていてはダメになる、次の時代がどうなるかを科学的に分析して街づくりをする必要がある」という話をしました。市役所は歩行者天国にして車を入れるなと言っているが、車はこれからの時代にも絶対に必要なものです「車を入れるためには現在の歩道を変えなければならない」と説得しました。また長老達は元町という門を作れといったが、門は外敵から自分たちを守るためのもので商店街にはそれはいらない。代わりお客様を迎えるモニュメントを作りたい。今度の元町を変えていくためのキーワードをモニュメントに表現したい。光の時代だ、光の鳥フェニックスをモニュメントにし光の三原色、赤・青・緑の3色の光がそれを支える形。「飛べ光の中へ----元町は永遠なんだ」という事を表現したい。一つの支(あし)はこの街を作った先人への尊敬の念で、一つはこれからこの街を継いでくれる子供達への義務として、もう一つはお客様への感謝を表す。感謝と尊敬と義務この3本の柱を光の3原色に託して街づくりをしていきたいと話をした。この話を聴いて長老が「解かった任せよう」と言ってくれました。

 伊勢崎町・元町これは対照的な商店街なんです。このモダンな街、元町がその思想を展開しようとした時、石川町と中華街との共存共栄の社会を作らなければならない、そのためには中華街はより中華街であるような街づくりをして欲しいと要望した。そしたら電柱まで真っ赤になった。市の補助金の出るのは表だけで裏道は汚いままだった。元町の商店街は裏道から材料を入れて物を作って表で売っていた、そこでその裏道を職人の街として物づくりの現場を見せよう、反対の堀川側は憩いの場所としてテーブルを出してお茶を飲めるようにしよう。そして元町の通りは徹底的に買い物の通りにしようとゾーンとしての取り組みをした。海岸通りには駐車場計画をたてて立体駐車場を作りました。今は東急東横線の元町駅を作ろうということで話が進んでいる。

 この元町の再生計画が出来あがったとき道路が曲がっているということで全国から視察が絶えなかったが、それがまた街の活性化に繋がった。そしてこの元町の再生で大事なキーワードは世界で初めてを実現するということだった。元町は20世紀最後の街を作ったとは言われたくないでしょう、そういう恥を積み重ねている街がたくさんある。どこかのコンサルが国の補助金をもらってやったような街がたくさんある。日本全国みんなタイルを貼った街が出来あがりました。鎌倉の小町通りまでタイルを貼った。恥ずかしくて歩けないですよ、北条氏は涙流していますよ。長岡市もメーンストリートの大手通にタイルを貼った、新潟県長岡市大手通は行政の主導のマニュアル通りに20世紀最後の街づくりをした。通路に模様がはいっています、50年前のマニュアル通りに20世紀最後の街を作った、市民の声など聴いていない。完成披露に新聞社もテレビ局も来ない、何故なら話題性がない。私がJRが売りに出した操車場跡地で不要になった栗の枕木をカットして使ったらと言ったが聴いてもらえなかった。もしあれだけの面積に木の歩道を作ったら歩きやすく四季の風情を伝えられるし話題になり全国から視察が絶えなかったに違いない。少なくてもこの八戸六日町では人の真似だけはして欲しくない、どこかで成功したからそれをやろうなどということはおくびにも出して欲しくない。ただし行政は前例が無いと断るんです、行政は失敗が怖くて他と違ったことをやれないんです。前例が無い事に対しては補助金は出ません、だからやれません。それでは街は滅びるんです。今の日本は前例を壊していかなかったからこうなったのです。

 私は東京造形大学の学長のあと、長岡に新しい大学を創りました。長岡市長が八王子の東京造形大学までわざわざ来られて分校を作って欲しいと言われました。ところが当時東京造形大学は新キャンパスを作っている時期で、私はお引き受けしようと思ったが理事会でお断りとなってしまった。ところが、また長岡市長がおいでになって自分たちで作るから委員になって欲しい。ちょうど2期8年学長を務めた時期でそれ以上は権力志向に走るので良くない、ならば学長を辞めたあと長岡造形大学をお引き受けしようということになった。キャンパスの予定地は長岡駅からタクシーで3500円程の場所だったので、これでは遠すぎる先生が集まらない。だいたい山の中に大学があるのは日本だけだ。ヨーロッパやアメリカの大学はみな街の中にある。これから社会に出る人間が山の中で猿のように教育されたんじゃダメなんです。そしたら信濃川の近く駅からもそう遠くない場所を紹介された。実は市が確保していた病院用地だったものでその後病院用に別の土地を買わなければならなくなり大変だったようです。(こらから入学する学生が)ここを卒業する時は21世紀です。ということで、日本では例の無いデザイン専門大学を創った。

 デザインは美術ではなくサイエンスだと私は考えている。人文科学、社会科学、自然科学の融合体としてデザインがある。すべて材料についても科学的な分析が必要、加工技術もそうだ。こういう科学的な情報の中でデザインをすることによって、街づくり物づくりが生まれてくるはずだ。形や色だけがデザインでないという事を世界の人達は知っている。だからデザインの専門大学を創りたいその基本的なコンセプトはトータルサイエンスだ。市長は「すべてお任せします」とおっしゃって110万uの土地と89億の資金を預けてくださった。そして一言だけ「困った事があったらいつでも相談してくれ」とおっしゃった。それ以来現在まで一言も口を挟まれたことはない。長岡造形大学は8年目ですが7年でドクターコースまで認可になり、学部4年マスター2年ドクター3年の9年生大学が7年間でできた。しかも1000名の学生を教える専任教員36名非常勤100余名職員23名です。大学院の申請にあたっても他の大学から招いたいわば学外の人間はひとりもいない。学内36人の先生の中から○合(大学院修士課程教授の資格要件を満たした)を取った先生を中心に書類を出した。ドクターコースも同じく○合を取った。13人の先生で認可を取った。先生の平均年齢は現在48歳。開校時は44.6歳だった。従来の一般教養科目は1科目もありません、というのはマスターからカリキュラムを下げてきた時従来の一般教養科目は1科目も入らなかったのです。長岡造形大学には体育実習も無ければ、外国語研究室もありません。その代わり国際的に通用する専門教養科目の先生を用意しました。外国語はデザイン英語と言います。それは英会話を最初やって、専門図書の購読をやって、最後は自分の作品研究のプレゼンテーションを英語でやるのです。それをデザインの専門の先生が教えています。日本はアメリカに55年遅れてITという言葉を使いはじめました。日本のインターネットはインターネットじゃなくインナーネットです。日本語です、InternetはInternational information network systemの略ですが本来使用する言語は英語なんです。しかし日本は日本語という地方語でやっている、そのため得られるべき情報量が激減している。中国も台湾も韓国もフィリッピンもみんな英語です英語以外使わない、英語を第二国語と言っている程です。数年前韓国のトップ経営者セミナーに呼ばれたんですが、経営者は忙しいからと早朝7時からのセミナーでした。担当者からこの席にいるものはみな英語が理解できますが先生日本語でお話しなさいますか英語でしょうか。もし英語で話されるなら通訳は返しますがと言われました。私は英語は堪能とは言えないまでも多少の心得があったので今日は用意がないからと「本来なら韓国語でお話しするべきでしょうがまだ勉強しておりませんお許しを」と英語で挨拶して、あとは日本語で話をして帰ってまいりました。そういう時代になっているんです。「韓国では経営者は(英文の)契約書を自分で読んで株主に責任を持ってサインしていますが、日本でもそうですよね」と言ったから「そうですよ」と返事をしてきました。街づくりでも物づくりでも世界に無いものを造らなければならない。道路を曲げたというのは日本では初めてだったと思うんですが全国から人が来た。世界で初めてのものを造ると人は集まってくる、人が来るとお金を落としてくれるんです。外から人が来ない限り繁栄はあり得ないんです。

ルイヴィトンは本来は1万円10万円という価格でバッグを作る会社じゃないんです。しかし、ルイヴィトンの本社に開店と同時に入ってくるお客さんのほとんどは日本人なんです。でも100人に1人しか買いません。買えないんですその当時の値段ですが2000ドル(72万円)のハンドバッグは日本人は買えないんです。たまに買う人がある、あの赤ちゃんの頬のような柔らかい皮のバッグを。そこでルイヴィトンは日本人はいくらなら買うか調べたんです。10万円それはルイヴィトンでは不可能な価格だった。マダムジョランと言う人がいますが私に言ったんです「随分造ったわよ10万円で、でも皮じゃできなかったわ」円が上がってもやはり無理だった。そしてルイヴィトンは悩んだですが結局化学材料で造ったんです。材料費は関係無いんですよ、日本人が買う値段に設定している。ルイヴィトンの看板背負って歩いているようなものですよね。でもそれが飛ぶように売れた。それが物づくりですよね。彼らは日本人が買うとアジアの人達も買ってくれると思ったが、まったくそのようになった。化学材料で造ったんでは簡単に真似されるということが社内で検討されたそうです。でもそれでもイイ、真似されてもイイいいから造ろう。

 街づくりは大変です、難しいです、しかしそこに住んでいる人達とそこで商売をやっている人達が自分達だけしかできない事、自分達の街にしか無い物を造るということが基本的な鍵です。人の真似をしたら失敗します。時代の変革に伴う問題を私達は押しつけられているのかも知れません、しかしそれを乗り越えるのは皆さん方の心そして努力しか無いと思います。